過ぎた時間の、その重さについて考えることが増えた。
それは自分がここまで生きてきて、その過程の美しさとくだらなさ、その両方と向き合う時間に移り変わる。
生きていく中で、10代から20代の儚く取り返しのつかないながらも輝いて見える時期から、社会人として生きるという、大人が当たり前ではないながらも、どうにかして全うする役割を自分も演じなければならない責任感に包まれた時期に遷移していく。
その過程で、得たものもあれば、失ったものもある。
得たものは失うこともあるが、失ったものはもう手に入れることはできない。
それがわかっているのに、失ったものを取り返したくなる瞬間というのが度々訪れる。
そしてそれはそのまま原動力や呪いとなって、自分を無作為な方向に振り回す。
もう手に入らないもの、もう元に戻らないもの。
手に入ったかもしれないもの、壊さずに済んだかもしれないもの。
大切に思っていた、さまざまな事柄の断片を、より一層大切に思う。
こんな気持ちには蓋をしてしまった方が、社会人として円滑に生きることができるというのはわかっている。
諸行無常というのは頭ではわかっているのだけれど、心がそれを拒否する。
そう、これは否定じゃない。拒否だ。
拒否したところで何かが覆ることなんてないとわかっているのに。
最高裁までいって棄却されてる状態のようなものだというのに。
かつて、「諦めることは簡単だ、簡単過ぎてつまらない」と歌ったバンドがいた。
難しいからトライしてるのか。
それもわからない。
ただ、自分の中にある釈然としない、あと少しくらいは上手くできたんじゃないか、あと少しくらいは上手くできるんじゃないか。そういう気持ちが頭から離れない。
ミッドライフクライシスなんて言って、カテゴライズされることも増えた。
だけど、そこにはミッドライフを迎えた人々が過ごした時間の多様性を丸々無視したような、無機質さを感じずにはいられない。
「その年頃の人はそういうものだ」なんて、若人にも中年にも、もちろん老年期の人にもいうべき言葉じゃない。
もっと、個々の差異に目を向けて、論じるべきなんじゃないだろうか。
カテゴライズされることで得られる安心感というものがあるのは知っている。が、安心は時に精神の前進を阻害することもある。
敢えて、言う。
諦めるのは、難しい。
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