先週の発売日に購入した。
今作は、前著の「人間関係を半分降りる」よりもさらに諦念が強い一冊のように感じた。
前著もある意味での諦念を感じる一冊だったが、タイトルにあるように人間関係にフォーカスを合わせて書かれた作品だ。
今回は自身の内面にフォーカスを当てている。その点で前著とはコンセプトは根本的に異なるといっていいだろう。
今作を読みながら、phaさんの「パーティーが終わって中年が始まる」を読んだ時のような、抗い難い時間の流れの中で、著者が変化していく様を感じた。
僕の中での鶴見さんの90年代における最高傑作は「檻の中のダンス」だ。あの本は、まだ若くてエネルギーがある鶴見さんが、生きにくい世の中をダンス(単純に踊ることではなく概念も含む)という行いで乗り切るライフハックの側面もある一冊だった。
一方でヨーロッパでラブパレードやクラブ巡りをしたり、オランダで色々楽しんだりしたことも記されている。当時のヨーロッパの雰囲気が伝わってきて、貴重なルポでもある。特に90年代テクノ好きにはたまらない。
この本を今読むと、書かれたのが90年代という時代もあったのだろうが、鶴見さんの中にもゆるさと力強さが同居していると感じる。
この本以降も鶴見さんの本は全部読んだが、「檻の中のダンス」を自分は最も多く繰り返し読んだ。
そして、今回の「死ぬまで落ち着かない」は全く違うアプローチの思考だった。
冒頭に書いたように、前著の「人間関係を半分降りる」とも違う。
何が違うのか。すぐにはわからなかった。が、何か違うという違和感がずっと拭えなかった。
読み終えて数日間考えてみて、ひとつわかったのは、鶴見さんは何か自分以外のものに抗うことをやめたのだと思った。
この本の中では、他者やルールに抗うことはせずに受け入れながら、自分自身に抗い変質し続けて生きることを提唱している。
抗う対象が自分になったことで、抗わなければいけないものが却って増えている。
が、力が一切入っていない。これは文体の変化からも明らかだ。
私たちは気持ちをしっかり持っていないと、やることが次々に変わってしまうと考えています。だからこそ「ブレない」が褒め言葉になるのです。
けれどもそれは青年期までのことなのではないでしょうか。その時期にはたくさんのことを知り、なんでも吸収していくので、あれもこれもやりたくなる幸福な年代だったのです。
中高年はその点でまったく逆です。新しいものを吸収しなくなるので、変わるのがとても難しい。だからこそ姿勢も一八〇度変えねばなりません。「ブレない」「不動」なんてわざわざ自分に言い聞かせるまでもない。むしろそれしかできないのですから。私の両親だって「不動」です。
あえて今の自分を疑う、時には否定してみる。そして変わろうと努力する。そんな姿勢が求められるのです。
この一節に、この本の基本的なスタンスが書かれている。
刺激によって変化しにくくなった自分、その自分を受け入れる。
その上で、かつて褒め言葉として機能していた「ブレない」をネガティブなものとして捉え、それに抗う。
側から見たらわからない変化だが、そこには確かに鶴見さんが若い時に持っていた「抗い」の気持ちが根強く残っている。
人生には勝ち負けなんてない。
だからライバル意識や競争心に燃えても空振りに終わる。
人生が長くなると、ますますそう思えます。
そもそもスポーツやゲームのような勝ち負けが現実の世界にはないのに、人生の出来事がそのようにたとえられることが多すぎるのです。
スポーツやゲームは、特別な競技の場で特別なルールを定めてやるものです。だからこそ戦い競い合うポイントが限定されるので、勝ち負けが明確になるのです。
僕は成功や失敗というものは一時的なもので、人生には成功者も落伍者もいないという考えで生きている。
成功、失敗を人がどう判断するのかを考えると、「誰かと比べて」いることが非常に多い。これは、鶴見さんが書かれている勝ち負けの概念と本質的には同じだと思う。
仕事のルールなんて業種ごとに変わるし、業種が同じであってもエリアが変われば基準も変わる。なのでマクロに見ても何を基準にすればいいかわからないし、ミクロに見てもそんな狭い範囲で勝ち負けってつくんだろうかとなってしまう。
SNSで見かける不毛な年商合戦なんかは最たるもので、年商の基準は業種ごとに変わるのが当然だから、わかりやすい数字ひとつで、その仕事の素晴らしさを語ることなどできない。
よって、僕は成功も失敗も勝ちも負けもないという考えで生きている。
その考えは、上記の鶴見さんの意見とかなり似ていて嬉しくなった。
人生の目的を叶えるというと、何かを成し遂げる、自己実現するというイメージが付きまといます。けれどもそれは、多くの人ができることではないのです。
私は人がまず自身の人生で目指すべきことは、「自分の苦痛を減らす」ことだと思います。
特に最後の一行がずっと頭に残っている。
自分の苦痛を減らす。
これは人それぞれなので的確に表現するのが難しい。何に苦痛を感じるかは人によって異なるからだ。
ある人にとっては些細なことであっても、ある人にとっては到底我慢できることじゃなかったりする。
なので、まずは苦痛の尺度を自分の中に持たなければならない。そして、苦痛のディテールを自分以外の誰かと共有するというのは基本的にはすごく困難なことなので望むことはできない。
自分が苦痛を感じるものを把握し、自分でその対象を減らす。
こう書くと、これは十分に立派な自己実現のように思える。
自己実現というと、他者から見た自分を作るような作業に捉えてしまうが、このように内面的なものと捉えると、自己実現という言葉の持つ意味が変わってくる。
そして、これならある程度はできそうだという気持ちになってくる。もちろん生きる上で苦痛をゼロにすることは難しいが、減らすことならできそうじゃないだろうか。「嫌だなあ」と少しでも頭をよぎる、自分でコントロール可能な小さなルーティンをなくすように努めれば、それは自己実現の一種だ。
こう考えると、自己実現なんて毎日できるものなのかもしれない。
まとめ
若い時から鶴見さんは、「行きにくい世の中をどう生きるか」というテーマを度々著書に書かれていた。
その意味で今著は、鶴見さんの思考の現在地をわかりやすく示していると言えるだろう。
これから先、鶴見さんがどういう思考になっていくのか。引き続き追い続けていきたい。

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